三年前に私が書いた提案は、ちゃんと実行されていた。それで数字が悪くなっていた
三年前の資料フォルダを開くところから、この案件は始まった。当時の私の分析は正しくて、正しいまま、この会社の講師を減らしていた――矢代が、二度目の登板で自分の仕事と再会した記録。
四月の頭に、案件の名前を見て、私は少し固まった。
矢代です。二十九歳、入社六年目。三年前、私は入社三年目で、同じクライアントの案件にいた。
アサイン ―― 二度目
クライアントは、個別指導の学習塾チェーンだった。校舎が百十二、生徒がおよそ一万八千六百人。講師の大半は大学生のアルバイトで、二千四百人いる。
三年前の案件は、校舎ごとの採算改善だった。生徒数が伸び悩んでいて、人件費が重い。私はそのとき、講師の配置とシフトの分析を担当していた。
今回の依頼は、その三年前の施策がどこまで定着しているかを検証して、次の打ち手を作ること。
マネージャーの塙さんに「矢代、前に入ってたよな」と言われて、「はい」と答えた。「じゃあ、そこの検証、お前がやって」と言われた。
その場では「はい」としか言わなかった。会議室を出てから、少しだけ、面倒なことになったなと思った。
三年前のフォルダ
社内のサーバーに、当時の案件のフォルダが残っていた。
開いたら、私が作ったファイルが百四十くらいあった。命名規則がばらばらで、「シフト分析_v3_修正版_最新」というファイルがあった。二十六歳の私は、こういう名前を付けていた。
当時の議事録も残っていた。読むと、私はけっこう発言していた。生意気だとは思わない。ただ、言い切り方が強い。「〜べきです」という文末が多い。いまの私は、あまりそう書かない。
そのフォルダの中に、最終報告のスライドがあった。八十六枚。
私が担当した箇所は、二十三枚目から三十四枚目だった。
見出しはこうなっていた。「講師一人あたり担当生徒数を一・五名から二・二名へ」
覚えていた。この見出しは、当時のマネージャーに三回直された。最初は「講師配置の最適化」と書いていて、「何をどうするのか書け」と言われた。次に「講師配置の見直しにより人件費を圧縮」と書いて、「数字を入れろ」と言われた。三度目で、この形になった。
いい直しだったと思う。いまでも、私は後輩に同じことを言う。見出しに数字を入れろ、と。
数字を入れると、その見出しは責任を持つ。三年後に、その数字が達成されたかどうかを誰でも確認できる形になる。
確認できる形にしたのは、私だった。
立ち上がり ―― 一・五が二・二になった
三年前、この会社の個別指導は、講師一人が同時に見る生徒が平均一・五名だった。制度上は最大三名まで見られる。だが実際には、一対一に近い運用をしている校舎が多かった。
私はそれを、九十分の授業の中で講師が何をしているかを、十二校舎で観察して分解した。実際に一人の生徒に説明している時間は、九十分のうち三十四分だった。残りは、生徒が問題を解いているのを待っている時間と、丸付けと、記録の記入。
だから、二・二名は可能だと私は書いた。数字としては、そのとおりだった。
三年後の実績を見た。全社の平均担当生徒数は、二・一名になっていた。ほぼ提言どおりだ。
人件費率は、当時の三十八・四パーセントから、三十四・九パーセントに下がっていた。これも提言どおり。
私は最初、それを見て少しほっとした。実行されて、効いている案件は、そんなに多くない。
問題は、その隣の数字だった。
講師の年間の離職率が、当時の四十二パーセントから、五十八パーセントになっていた。
もともと大学生のアルバイトなので、離職率は高い。卒業もあるし、就職活動もある。四十二パーセントは、この業界では普通の水準だった。
五十八パーセントは、普通ではなかった。
仮説構築 ―― 減っていた場所
四月から六月にかけて、私は二十一校舎を回った。
三年前に観察した十二校舎のうち、七校舎に、当時と同じ教室長がいた。
そのうちの一人、四十代の女性の教室長が、私のことを覚えていた。「前にも来られましたよね」と言われた。私は「はい、三年前に」と答えた。
彼女は、離職の理由をこう説明した。
「二人見るのは、できるんです。できるんですけど、うまくいかない日に、逃げ場がなくなるんですよ」
一対一だと、生徒が詰まったときに、講師はその一人に集中できる。二人だと、片方に付いているあいだ、もう片方は放置になる。放置された生徒は、次の週に「先生、こっち来てくれなかった」と言う。
その苦情は、教室長ではなく、講師本人に直接来る。大学生に。
「それで、二ヶ月くらいで辞めちゃう子が増えました」と彼女は言った。「昔は、一年目でやめる子はもっと少なかったです」
その日の夜、私はその校舎で九十分の授業を後ろから見た。三年前と同じことをした。
見ていたのは、大学二年の男子だった。中学三年生を二人担当していた。一人が数学の関数で、もう一人が英語の長文。
彼は、数学の子に八分説明して、英語の子のところへ移り、四分見て、また戻る。戻ったときに数学の子は手が止まっていた。止まっている時間は、私が計った範囲で三分から六分だった。
授業のあと、その講師に少し話を聞いた。「大変じゃないですか」と聞いたら、「慣れます」と言われた。それから、少し間があって、「でも、待たせてるのは分かるんで、それがちょっと」と言った。
三年前の私は、この待ち時間を「もともとあった空白」として計算に入れていた。生徒が問題を解いているあいだ、講師は空いている。だから二人見られる。
計算は合っている。空白は、たしかにあった。
私が見落としていたのは、その空白が誰のものかということだった。あれは講師の空白ではなく、生徒が考えている時間で、講師にとっては「見ている時間」だった。見ているのをやめさせて、別の生徒に振ったのが私の提案だった。
データを取り直した。入って半年以内の離職が、全体の離職の六十一パーセントを占めていた。三年前は四十四パーセントだった。
採用の単価も出した。一人採用するのに、三年前は三万一千円かかっていた。いまは四万四千円。採用の回数が増えて、媒体の掲載も増やしているからだ。
人件費率は三・五ポイント下がった。採用と研修の費用は、売上比で一・一ポイント上がっていた。差し引きでは、まだプラスだ。
ただ、講師の質のばらつきは大きくなっていて、退塾率も上がっていた。生徒の年間退塾率が、当時の十九パーセントから二十三パーセントになっている。
そこまで積むと、三年前の提言の収支は、たぶんほぼゼロだった。
六月 ―― 中間報告
中間報告で、私はその積み上げを出した。
聞いていたのは、教室運営部の部長だった。三年前に、課長として私のカウンターパートだった人だ。名前は柴田さんという。
柴田さんは、資料を最後まで見てから、こう言った。
「矢代さん、あのときの提案は、良かったですよ」
私は何と答えていいか分からなかった。
「本当に、あの分析で、うちは動けたんです。あれがなかったら、人件費は下がってません」
それは事実だと思う。事実だと思うが、私が出したばかりの資料には、その先で何が起きたかが書いてある。
私は「ただ、半年以内の離職が」と言いかけた。柴田さんは「分かってます」と言った。「分かってますけど、あのとき、うちは人件費を下げないと校舎を閉めるところでした」
三年前、私はそのことを知らなかった。知らされていなかったのか、聞かなかったのかは分からない。当時の議事録を読み返しても、その話は出てこない。
会議のあと、塙さんに「あれ、褒められてたな」と言われた。「はい」と答えた。
塙さんは「あれ、褒めじゃないぞ」と言った。「うちにもう一回発注するために言ってる」
そういう見方があることは知っている。知っているが、私はそのとき、柴田さんの言い方は本当だったと思っていた。いまも半分はそう思っている。残りの半分は、塙さんが正しいと思っている。
どちらでもいい、とは思えない。褒められた瞬間に、私は自分の資料の数字を疑うのをやめかけていた。やめかけたことのほうが、問題だった。
最終報告 ―― 二・二をやめない
最終報告で出した案は、担当生徒数を一・五に戻すものではなかった。
戻せない。人件費率は元に戻り、校舎の何割かは赤字になる。
出したのは三つだった。
一つ、二名を見る前提での授業の型を作る。九十分を、説明・演習・巡回の時間割にはっきり分けて、講師が「いま放置している」と感じないようにする。これは、二十一校舎のうち、離職率が低い四校舎がすでに自前でやっていたことだった。
二つ、入って半年の講師には担当を一・五名で固定する。段階を置く。全社で見ると、担当数の平均は二・一から二・〇に下がる。人件費率は〇・四ポイント上がる。
三つ、苦情の受け口を教室長に移す。生徒の不満を、講師本人に直接届かせない。これはお金がかからない。かからないのに、三年間、誰も変えていなかった。
一つ目と三つ目を、柴田さんは即決した。二つ目は、「〇・四は、いま出せないです」と言われた。
保留になった。保留のまま、この案件は終わった。
生活 ―― 二十九歳の四月
この案件のあいだ、私は週に三日ほど、校舎を回っていた。
校舎は、駅前の雑居ビルの三階や四階にある。エレベーターがない建物もある。一日に三校舎回ると、階段を十階分くらい上がる。
夜の授業を見に行くので、帰りが二十二時を過ぎる日が多かった。夕食は、駅のホームで買ったパンか、コンビニのおにぎりだった。
家は会社から四十分の1LDK、家賃十二万二千円。年収は八百九十万円。六年目としては、たぶん普通だ。
三年前、私は同じ路線の逆方向に住んでいた。家賃は八万円だった。あのころのほうが、家に帰る時間は遅かったと思う。
五月に、大学時代の友人の結婚式があった。三年ぶりに会う人が何人かいて、「まだコンサルなんだ」と言われた。まだ、という言い方が少し引っかかった。引っかかったので、笑って「まだやってる」と答えた。
同じテーブルに、高校で数学を教えている友人がいた。彼女に、いまの案件の話を少しした。個別指導で、一人が二人見る話。
彼女は「二人はきついよ」と即答した。理由を聞いたら、「片方が分からない顔をしてるときに、もう片方に行けないから」と言った。
三ヶ月かけて二十一校舎を回り、離職率と採用単価を積み上げて私が出した結論を、彼女は五秒で言った。
そのことを、私は帰りの電車で考えていた。悔しかったのではない。ただ、私が三年前にこの質問を誰かにしていたら、と思った。していれば、たぶん同じ答えが返ってきた。私は当時、九十分の内訳を三十四分と計るほうを選んだ。計るほうが仕事に見えたからだ。
後記 ―― 三年後
私が三年前に作ったスライドは、いまもこの会社の中にある。
柴田さんの部の共有フォルダに、当時の最終報告がそのまま入っていて、新しく着任した教室長の研修で、一部が使われているらしい。二十三枚目から三十四枚目が、使われているかどうかは聞かなかった。
聞かなかった理由は、たぶん、答えを知りたくなかったからだ。
今回の報告も、同じフォルダに入る。三年後に誰かが開くかもしれない。開いたときに、私が今回出した三つの打ち手が、どういう数字になっているかは分からない。
一つだけ、三年前と変えたことがある。
今回の報告書には、それぞれの打ち手のページに、「この施策で悪化する可能性がある指標」という欄を作った。二・〇にするページには、人件費率が〇・四ポイント上がると書いた。授業の型のページには、教室長の準備工数が月に六時間増えると書いた。
その欄を、柴田さんは会議中に二回、指でなぞっていた。読んでいたのだと思う。
三年後に、また呼ばれるかもしれない。呼ばれたときに、その欄を私は先に開く。開いて、そこに書いてある悪化のほうが、ちゃんと起きているかどうかを見る。
たぶん起きている。起きていることを、私は今度は、最初から知っていることになる。それが前より良いことなのかは、まだ決めかねている。
この体験記はフィクションです。実在の企業・案件・人物とは関係ありません。
しかし、あなたが経験するであろうコンサルライフに、限りなく近い何かかもしれません。