体験記 No. 109

二十二年やってきた人の訳を、私は「直し工数」と書いた

案件翻訳・ローカライズ会社(売上38億/登録翻訳者610人)・生成AIの導入と翻訳工程の再設計
話の中心中間報告
語り手苅谷 聡美 / 41歳・マネージャー2年目(前職・出版社の書籍編集)
読了約8分 · 5,500字
案件の時間軸 ―― 着任から最終報告までの、ひと通り
アサイン
立ち上がり
仮説構築
中間報告
最終報告
9円が4円に610人のうち190人

速いと思ってしまった。思ってしまったことを、報告に書いた――苅谷が、工程表に単価を並べた六ヶ月。

一文字、九円だった。

その単価が、四円になる。

私が六ヶ月かけて作った資料の、いちばん大事な行はこれだけだ。

九円と四円のあいだに、工程表が二枚ある。

工程表の中に、「直し工数」という言葉がある。

その言葉を書いたのは私だ。

苅谷です。四十一歳。中途で入って、マネージャーになって二年目になる。

アサイン ―― 四月

クライアントは、翻訳とローカライズの会社だった。

売上が三十八億円。社員が百八十人。それと、登録している翻訳者が六百十人いる。

扱うのは産業の文書だ。機械の取扱説明書、医療機器の添付文書、特許の明細書、ゲームの台詞。

依頼は、生成AIを工程に入れて、原価を下げ、納期を短くすることだった。

きっかけは、大きい取引先三社から、同じ四半期に値下げを言われたことだという。

値下げの根拠として、三社とも「機械でできますよね」と言ったそうだ。

フィーは二千百万円。期間は六ヶ月。

チームは、私と、三年目の人と、データを見る人の三人。

私は前の職場で、書籍の編集をしていた。十四年いた。

原稿料と印税の話は、何度もした。文章に値段をつけるのは、初めてではない。

初めてではないから大丈夫だと思っていた。

チームの三年目の人は、二十六歳で、入社したときから機械の出力を使って資料を書いている人だった。

その人に、最初の週に「これ、もう決まってる話じゃないですか」と言われた。

決まっている、というのは、やるかやらないかではなく、いつやるかの話だということだ。

正しいと思った。正しいと思ったのに、少し嫌だった。

嫌だった理由を、六ヶ月のあいだ、何度か考えることになる。

工程を割る ―― 五月

まず、いまの工程を割った。

原文の受け入れ、用語集の照合、翻訳、バイリンガルチェック、日本語だけの校正、レイアウト、最終確認、納品。

八工程ある。

一件あたりの工数を、過去二年の八千四百件分のログから出した。

平均で、原文千文字につき六・二時間。

内訳は、翻訳が三・一、バイリンガルチェックが一・四、校正が〇・九、残りが〇・八。

翻訳が半分だ。

ここに機械を入れると、三・一が減る。

減った分がそのまま利益になる、というのが取引先の言い方だった。

実際にはそうならない。減るのは翻訳で、増えるのはチェックだ。

この当たり前のことを、資料の二枚目に書いた。

試す ―― 五月の後半

社内の百二十件で、試した。

機械に訳させて、人が直す。この形を、業界ではポストエディットと呼ぶ。

分野を四つに分けた。説明書、添付文書、特許、台詞。

結果は、分野ではっきり分かれた。

説明書は速かった。千文字の処理が、三・一時間から〇・九時間になった。

同じ構文が繰り返される文書で、用語集が効く。

添付文書も、形式の部分は速い。ただし、効能と注意の書き方で止まる。

特許は、速くなった分をチェックで食われて、差し引きで〇・三時間しか縮まなかった。

台詞は、遅くなった。直すより書き直すほうが速い、と担当者が全員言った。

この四つの差を、私は面白いと思った。

面白いと思ったことを、覚えている。

差が出る理由は、用語集で説明がつく。

この会社の用語集は、一万四千八百語あった。

分野ごとに作られていて、説明書の分野がいちばん厚い。六千二百語ある。

台詞の分野は、四百語しかない。

人物の口調を、用語集には書けない。

書けないものが多い分野ほど、機械は役に立たない。

この一行を資料に書くのに、私は三日かけた。

三日かけて、十九文字になった。

自分で直してみた

六月に、自分でも一件やった。

工作機械の保守の手順書で、原文が四千二百文字。

機械の出力を読んで、直していく。

速かった。

四千二百文字を、二時間四十分で終えた。

前の職場で、同じ量の原稿に赤を入れていたときの感覚とは、まるで違った。

直すところが、最初から見えている。

主語の落ち、単位の揺れ、「ことができる」の多用。

同じ種類の間違いが、同じ場所に出る。

人の原稿は、間違い方が人ごとに違う。だから読まないと分からない。

機械は、間違い方が揃っている。

揃っているから、速い。

この「揃っている」を、私はその夜にメモした。

翌週の資料に、効果の根拠として書いた。

終わったのが二十二時すぎだった。

事務所を出て、駅までの途中のコンビニで、サンドイッチとコーヒーを買った。

レジの横に、文庫の棚があった。三段しかない棚だ。

その棚を、立ったまま一分くらい見た。

見ただけで、何も買わなかった。

買わなかったのは、今日の自分が読めると思わなかったからだ。

そういうことを考えながら、四千二百文字を二時間四十分で終えた自分を、まだ少し誇っていた。

中間報告 ―― 七月

中間報告の会議は、七月の第二週だった。

出席は十一人。社長、制作部の統括の方、営業の部長、品質保証の責任者、それと役員が二人。

出したのは三枚だ。

一枚目、工程別の工数の比較。

二枚目、分野別の適用の可否と、新しい単価。

説明書を一文字四円、添付文書を六円、特許を八円、台詞は従来の九円を維持する。

三枚目、品質の検証。誤訳の件数を千文字あたりで比べて、従来が〇・八件、新工程が〇・九件。

差は〇・一件で、統計的に有意ではない、と書いた。

品質は落ちない、という結論だ。

二枚目の説明のときに、私は「直し工数」という言葉を使った。

従来の工程では「翻訳」と呼んでいたものが、新しい工程では「直し工数」になる。

工程表の行の名前を変えたのは、分かりやすくするためだった。

制作部の統括の方は、四十六歳で、この会社に十九年いる方だった。

その人は、二枚目を見ながら「四円は、誰が受けますか」と言った。

受ける人の話だ。

六百十人の登録翻訳者が、九円から四円に下がった仕事を受けるかどうか。

私は、「単価は下がりますが、処理できる量が三倍になるので、一日あたりの収入は維持されます」と答えた。

その答えは、資料に書いてあった。

書いてあったので、そのまま読んだ。

統括の方は、「三倍、一日何時間ですか」と聞いた。

私は、六・五時間と答えた。

その人は、「じゃあ、六千五百文字を毎日ですか」と言った。

毎日ではありません、と言った。

言ったあとに、毎日でなければ収入は維持されないことに気づいた。

営業の部長の方が、そこで口を挟んだ。

「量は出せます」と言った。

三社からの発注は、単価が下がれば量が増える見込みがある、という話だった。

増える見込みの根拠は、三社の担当者の口頭の感触だった。

私はそれを資料に入れていない。

入れていないのに、その場で否定もしなかった。

否定しなかったので、会議は「量は増える」という前提で進んだ。

社長は、最後に「いつから出せますか」と聞いた。

十月から、と答えた。

その日の議事録に、品質の話は二行しか残っていない。

二行とも、私の三枚目の「差がない」を要約したものだった。

八月、ある人に会った

八月に、登録翻訳者の方に八人、話を聞いた。

そのうちの一人が、医療機器の添付文書を二十二年やっている方だった。

五十八歳の女性で、自宅で仕事をしている。

その方は、機械の出力を自分でも試していた。

「悪くないですよ」と言った。

それから、「でも、出力を見てから訳すのと、見ないで訳すのは、別の仕事です」と言った。

意味を聞いた。

出力を見ると、その言い方に引っぱられる。

自分で最初から考えるときに出てくる言い方と、違うものになる。

どちらが正しいかではなく、別のものになる、という話だった。

私はその場で、「それは、品質の差として測れますか」と聞いた。

測れないと思います、とその方は言った。

誤訳ではないので、件数には出ない。

出ないものを、私は三枚目で「差がない」と書いていた。

その方の机の写真を、一枚だけ見せてもらった。

机の左に、紙の辞書が四冊積んであった。

いちばん下の一冊は、背の文字が擦れて読めなかった。

「これは引かないんですけど、置いてあります」と言われた。

置いてある理由は、聞かなかった。

聞かなかったことを、あとで三年目の人に話した。

その人は「聞けばよかったのに」と言った。

そのとおりだ。

統括の方と、二度目の話

八月の終わりに、制作部の統括の方と二人で話した。

会議室ではなく、一階の自動販売機の前だった。

その人は、缶のコーヒーを買って、私にも一本買った。百四十円のものだ。

「苅谷さん、前は本を作ってたんですよね」と言われた。

はい、と答えた。

「本の原稿も、機械で下書きできますよね」と言われた。

できると思います、と答えた。

その人は、「じゃあ、同じことですね」と言った。

同じこと、の主語が何なのか分からなかったので、聞き返さなかった。

聞き返さなかったのは、どちらの答えでも自分が困ると思ったからだ。

缶を持ったまま、四階まで階段で上がった。

上がりながら、同じことだ、と自分でも思った。

測り方を変えた ―― 九月

九月に、検証をやり直した。

誤訳の件数ではなく、読み手が読み返した箇所を数えることにした。

品質保証の方に、二十人の読み手を集めてもらった。

従来の訳と新しい工程の訳を、どちらか分からない形で読んでもらう。

読んでいる途中で、戻って読み直したところに印をつけてもらった。

千文字あたりの印の数が、従来が一・一、新工程が二・四だった。

二倍以上だ。

誤訳ではないのに、引っかかる。

この結果を、私は最終報告に入れた。

入れたが、結論は変えなかった。

単価の案は、そのまま出した。

変えなかった理由を書く。

引っかかる箇所が二倍になっても、取引先の三社は値下げを引っ込めない。

引っ込めないので、値下げを受けるか、受注を落とすかの二択になる。

二択のうち、受注を落とす案を私は書けなかった。

書けなかったのは、それが依頼ではなかったからだ。

依頼ではなかった、というのは言い訳だと思う。

最終報告 ―― 九月の末

通ったのは、三つだ。

分野別の単価。説明書四円、添付文書六円、特許八円、台詞は九円のまま。

用語集の整備。一万四千八百語あった項目を、分野ごとに切り分けて、二万一千語まで増やす。

それと、新しい工程で出る訳を、三ヶ月ごとに読み手の検証にかける仕組み。

三つ目は、九月の検証がなければ入らなかった。

入ったことを、私は少し安心して受け取った。

安心したのも、たぶん違う。

生活 ―― 四十一歳

年収は九百八十万円だ。家賃は十三万四千円で、一人で住んでいる。

前の職場の最後の年の年収は、五百二十万円だった。

この差について、転職してから二年、特に何も考えていない。

考えないようにしているのではなく、本当に考えていない。

目が、悪くなった。

去年から、夕方になると手元が見えにくい。

眼科で、老眼の始まりだと言われた。四十歳だった。

目薬を二種類使っている。机の右上に並べてある。

一本が四百八十円で、月に三本くらい使う。

肩は、去年から右だけが重い。

整骨院に月二回行っている。一回二千七百円で、保険が効かない種類のものだ。

行った日の夜は、よく眠れる。眠れるので、やめられない。

八月に、一日で三万二千文字の出力を読んだ日があった。

その日の夜、本を読もうとして、開いて、三行で閉じた。

文字が、全部同じ形に見えた。

後記 ―― 翌年の三月

新しい単価は、十月から適用された。

半年の数字を、営業の部長の方が送ってくれた。

受注の件数は、前年の同じ時期から三十一パーセント増えた。

売上は、九パーセント増えた。

登録している六百十人のうち、半年で一度も発注がなかった人が、百九十人だった。

前年の同じ時期は、七十四人だったそうだ。

添付文書の方は、残っていた。

発注は、前より多いと書いてあった。

その方から、三月に一度だけメールが来た。

用語集の項目の間違いの指摘だった。「注意」と「警告」の訳し分けが、二箇所で逆になっているという。

本文は、その指摘だけだった。

最後に一行あって、「直し工数、という言い方は、慣れました」と書いてあった。

慣れました、の意味を、私はまだ決められていない。

三年目の人は、四月から別の案件に移った。製薬会社の、文書の管理の話だ。

移る前に、「あの案件、いい案件でしたね」と言われた。

いい案件、というのは、効果の数字が出た案件のことだ。

出た。九パーセント増えた。

増えた売上の中に、百九十人の分がどう入っているのかは、資料には書けない。

前の職場で作った本が、実家の本棚に二十二冊ある。

二十二という数字が、あの方の年数と同じことに、メールを読んでから気づいた。

気づいただけで、何も思わなかった。

何も思わなかったことを、ここに書いておく。

ことわり

この体験記はフィクションです。実在の企業・案件・人物とは関係ありません。

しかし、あなたが経験するであろうコンサルライフに、限りなく近い何かかもしれません。

この話の翌週、あなたなら何をする?

同じ現場に立ったとき、どう動くタイプなのか。16問で当たりをつけられます。

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